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上杉景勝
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。
母:長尾為景の娘で謙信の姉・仙桃院。
養父:上杉謙信}}
継室:大納言・四辻公遠の娘}}
1555年、越後国(新潟県)に生まれる。1564年、父の政景が死去し、春日山城に入って謙信の養子となった。1575年、名を顕景から景勝に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。1578年、謙信が死去すると、家督をめぐって同じく謙信の養子であった上杉景虎(北条氏康の七男)と対立し(御館の乱)、景虎とその一派を1580年までに完全に滅ぼし、謙信の後を継いだ。
翌年、北越後国 越後の新発田重家に反逆されたうえ、柴田勝家率いる織田軍に越中国 越中にまで侵攻されるなど、存続の危機に立たされる。これは1582年に織田信長が本能寺の変で自害したため何とか逃れることができたが、織田氏の侵攻によって上杉氏の国力は大きく衰退し1586年には信長の死後に台頭した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従して命脈を保つことを余儀なくされたのである。

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあった経緯から徳川家康と対立する。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。

4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令(この召還命令は景勝を排除するための策だとされる)が出るがこれを拒否する(直江状)。
このため、家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する(会津征伐)。景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦ったが、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。

慶長6年(1601年)、直江兼続と共に上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続は許されたが、所領の大半を召し上げられ、うち米沢郡信夫郡伊達郡3郡のみ安堵され、出羽米沢30万石(実高51万石)に減移封され、米沢藩主となった。

景勝は直江兼続と協力して、米沢藩における城下町建設や法整備などの支配体制確立に尽力し、米沢藩の藩政確立に尽力した。だが、このとき上杉氏は所領を大幅に減らされたにも関わらず、抱える家臣をほとんど減らさなかったため、以後これが原因で、何度も財政難に見舞われた。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方について先鋒として活躍した。
元和9年(1623年)3月20日、米沢で死去。享年69。後を嫡男の定勝が継いだ。
墓所:山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所。また、和歌山県高野町の高野山清浄心院。上杉神社摂社である松岬神社に、祭神として祀られている。
(Wikipedia: 上杉景勝 )


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